レイ・ネイラー “The Mountain in the Sea”

2022年10月刊行。
分量およそ96000語、日本語訳なら文庫480ページくらい。

あらすじ

グエン
ベトナムホーチミン市の南、巨大AI開発企業ディアニマが所有するコンダオ諸島にやってきた海洋生物学者ハー・グエン。意識を持つとされるディアニマ製アンドロイドのエヴリム、中蒙冬戦争に参戦した元軍人アルタンツェツェグと共に彼女があたる仕事は、地元の海の沈没船を棲み処にして文化と社会を築き始め、地上での殺人にも及んでいると見られるタコの研究であった。調査の過程で、道具の使用・作成、群居、体表の色素胞で描く言語らしきシンボルが確認されていく。グエンらは人と異なるタコの生態や神経構造、意識について議論しつつ、シンボルの意味を読み解いてタコとのコミュニケーションを試みる。

ルステム
ロシアのアストラハンに暮らすハッカーのルステムは、顔をプライバシー保護装置で隠した謎めいた女性から、エヴリムのニューラルネット脆弱性を探るよう依頼される。

英孝
AI制御の洋上加工漁船〈海狼〉に拉致されて奴隷として働かされている英孝は、コンダオ諸島でダイバーをしていた奴隷仲間のソンから、島でささやかれていた海の怪物の伝説を聞く。

用語

ディアニマ DIANIMA
AI開発で最先端を行く多国籍企業
ホーチミン貿易自治区 Ho Chi Minh Autonomous Trade Zone
名前の通りの場所と思われる。これといった説明はなかった。コンダオ島の寺院をチベット仏教共和国に、島をディアニマに売った。
チベット仏教共和国 Tibetan Buddhist Republic
高度なドローン複数同時操作システム「ホロン」を世界に売り出している。
〈海狼〉
AI制御のトロール工船。武装した監視員が見張るなか、機械よりも海上で壊れにくく安価な人間の奴隷が働かされている。
自動僧侶 automonk
チベット仏僧の神経マップが転写されたオートマトン。コンダオ島の寺院の管理、海亀の幼体の保護にあたっている。
アプグランツ abglanz
顔の周りに合成画像やグリッチを発生させてプライバシーを保護する装置。
レーテンゴ point-five
カスタムメイドの対話ボット。人が望むのは対等な人間関係ではなく、理解を示してくれるが自らの要求を押し通そうとはしない「半人前」のパートナーである、という思想が呼び名の由来。

登場人物

ハー・グエン Ha Nguyen
頭足類が専門の海洋生物学者
エヴリム Evrim
研究チームのリーダー。世界で唯一意識を持つとされるアンドロイド。
アルタンツェツェグ Altantsetseg
中蒙冬戦争を戦った元軍人。液体インタフェースを通して多数のドローンを同時に操るエキスパート。コンダオ島のセキュリティ担当。
アルンカトラ・ミネルヴドゥッティル=チャン Arnkatla Mínervudóttir-Chan
エヴリムを作り出した人工知能研究者。
ルステム Rustem
ニューラルネット脆弱性を読み解く才能を持つハッカー
英孝 Eiko
沖縄出身の日本人。ディアニマで働くことを夢見てホーチミンの地を踏んだが、奴隷漁船〈海狼〉に拉致されて奴隷として働く破目に。
ソン Son
英孝の奴隷仲間。コンダオ島の元住人。

感想

  • 短編SFで頭角を現している(と書いておいてなんだが、短編の方はひとつも読んだことがない)著者の初長編。意識や言語をテーマにしたタコSFということで手に取ってみたが、これといって良いところがない駄作だった。
  • そもそもタコが登場するシーンの割合が大きくない。高い知能を持つタコSFを読みたい人には不満しか残らないだろう。
  • タコの知的な行動に関する逸話、知能に比して短い寿命、社会や文化を形成するのに向かないライフサイクル、人間とは異なる分散的な神経系によって形作られる精神のあり方などについて、参考文献を要約したような長セリフがグエンとエヴリムの間で延々とやりとりされる。登場人物の会話は議論というよりモノローグの応酬に近い。肝心のシンボルを読み解くパートにしても、タコからの拒絶を意味するのであろう単純なマークを考察しているだけでつまらなかった。クライマックスに至ってはグエンが1000語弱にわたって少女時代のトラウマをだらだら吐露するというありさま。
  • アンドロイドのエヴリム、タコ、人機一体となるようなドローン操作システムといったものを並べて意識について論じたかったのだろうが、大したことは書いていなかったように思う。ほとんど記憶に残らなかった。中心となる脳がありつつ、腕も自律して動いている分散型の精神がどうのと語られているが、これもまたドローンオペレーターのアルタンツェツェグが長セリフで所感を話すに留まり、言っているだけ感があった。
  • やたらコネクトームというワードが使われているが、これは「全ては連関の下に存在しているのだ」というテーマから選ばれたものと思われ、脳スキャンデータの同意語以上の意味は感じられなかった。タコの意識を取り上げるのであれば統合情報理論でも論じた方が面白いのではないかと思うが、そのあたりの話は一切なかった。
  • 英孝のパートは反乱あり仲間の死ありのAI蟹工船もの。変な日本観要素あり。英孝はオリヴァー・スタットラー『東海道の宿 水口屋ものがたり』を通して知った旅館、水口屋を記憶の宮殿として使っている。ルステムのパートは人工知能を読み解く術についての抽象的な話が続く。
  • これらふたつのサブプロットには故郷の喪失、無関心の罪などメインと共通するテーマはあるものの、その繋がりはいかにも弱い。ばっさりと切って、タコとのコンタクトを書き込むべきだった。
  • チベット仏教共和国やウラル連邦といった固有名詞で地政学的な変化が示唆されているにもかかわらず、その背景はまったく語られない。
  • 謝辞で挙げられている参考文献のうち日本語訳があるものは以下の通り。エドゥアルド・コーン『森は考える』、ピーター・ゴドフリー=スミス『タコの心身問題』、サイ・モンゴメリー『愛しのオクトパス』、セバスチャン・スン『コネクトーム』。またトマス・ネーゲル「コウモリであるとはどのようなことか」に作中で直接言及している。
  • 各章のエピグラフに登場人物の著作が引用されている。グエン『海は考える』とミネルヴドゥッティル=チャン『心を造る』。最初はそれほど気にならなかったのだが、後になるほどくどさが出てきた。作中世界に実在するテキストというていで情報をそれとなく開示したり圧縮したりする技法自体は嫌いじゃないのだけれど、これは説明がましくてだめだった。だいたい引用で直接的に tell される問題意識は本編でも示されるので、冗長でしかない。
  • 読み終えてから参考文献を再読してたまたま気づいたが、第2章の「海からやってきた我々は、体内に海水を抱え込むことによって生き永らえている」というエピグラフに似た文章が『タコの心身問題』にあった。ひとつこういうのを見つけると内容への悪印象も手伝って全部怪しく見えてくる。
  • 謝辞では「たくさん調査をしたものだから、脚注や文献一覧を付して、アイデアが取り込まれている研究者や哲学者を適切にクレジットすべきだとよく冗談を言っていたくらいだ」とも書かれているが、ジョークというより自虐にしか見えなかった。タコの動画や参考文献を漁った方がよほど楽しいのではないかと思う。