ピーター・ワッツ “Defective”

2023年1月 Life Beyond Us に初出。
分量およそ8400語、日本語訳なら文庫40ページくらい。

あらすじ

何かが宇宙に残していく莫大なエネルギーの足跡、死期の早まる恒星、従来モデルに当てはまらず安定の島の核種さえほのめかす異常なスペクトル。これら観測結果を説明づける試みのうち最後に残ったのは、到底信じがたい仮説だった。足跡の主は恒星に棲息しワームホールを自在に操る、原子の身体すら持たない位相欠陥生命体だというのだ。そしてその足跡は太陽系に近づいてきていた。謎めいた存在はアグニと名づけられ、意思疎通と打倒の両面を見据えた対策機関が国連主導で設立された。接触を模索するため抜擢されたのは種間コミュニケーションの泰斗、オンドレイ・ボハティ。シャチ、クジラ、ダイオウイカ、人と融合したケンタウロス人工知能、ナラタケの菌糸ネットワークなど、異質な相手と交感するため自らの神経やホルモン作用に手を加え偉業を成し遂げてきた彼の魔法はしかし、アグニにはまるで通じなかった。成果の上がらないコンタクトチームをよそに、特異点投射兵器の装弾数は増え続け、アグニの来訪を裏づける観測データが積み上がっていく。相互理解の可能性を諦められないボハティはアグニ虐殺を再考するよう促すべく、司令官への直訴に踏み切る。

用語

アグニ Agni
位相欠陥生命体。
セミポール semipole
磁気半極子。モノポールがさらに分割されたもの。
〈スーリヤ〉 Surya
ブラックホール駆動の小惑星船。アグニ研究の拠点。
SSV〈ホーソーン〉 SSV Hawthorne
スーリヤのシャトル船。
ビッグ・ファッキング・ガン Big Fucking Gun
ガンマ線レーザーを用いたブラックホール生成・射出装置。

登場人物

オンドレイ・ボハティ Ondrej Bohaty
種間コミュケーション学者。
エイジャ・ピオトロヴスカ Asia Piotrowska
物理学者。ボハティの恋人。
ドレム・ハウスマン Drem Haussman
対アグニ作戦を統括する将軍。

感想

  • ブログで抜粋を読んで、恒星生命を主役に据えた話を書いたのかと少々期待していたのだけれど、結構な肩すかしを食らった。執筆には苦労し、物語としてまとまっているかもわからないと書いているあたり、出来が良くない自覚はあるらしい。
  • 注目ガジェットは位相欠陥生命体。元ネタは2020年に発表された論文 “Can Self-Replicating Species Flourish in the Interior of a Star?”。内容についてはこちらの動画が専門的な細部を省いていてわかりやすい。宇宙ひもにセミポールがビーズのように連なった「宇宙ネックレス」は情報担体になり自己複製して進化もしうるという突拍子もないアイデアを提示している。
  • 原子という共通の基盤すら持たず、宇宙の相転移によって生じた位相欠陥で構成された、時空そのものと言える生命体。そんな相手とのコンタクトに臨むのは自らの脳に手を加え数々の異種間コミュニケーションを成し遂げてきた男、という設定は面白そうに見えるのだが、実装はうまくいっていない。
  • 試みはことごとく失敗し、アグニからはなんの反応も得られていないという状況から話が始まっている。人間性を捨てることで異種との交感を成立させてきたオンドレイの華々しい実績は、適格性審査資料という形でさらっと示されるに留まり、異端のコミュニケーション学者としてどのように脳に手を加えてきたかも描かれていない。
  • ただ、描こうにも描けない部分があるのもわかる。オンドレイはコミュニケーションにおける言語中心主義を批判していて、言葉を一種の暴力として、意味やニュアンスの欠落を避けられない拘束衣として見ている。読者からすれば、シャチやダイオウイカ、ナラタケの菌糸ネットワークとの意思疎通を具体的に見せてほしいところだが、小説である以上は言葉を使って表現しなければならない。ちょっとしたジレンマだ。単にエピソードを重ねるだけの紙幅がなかっただけの話かもしれないが。
  • アグニやワームホールの説明で手一杯、会話もマンネリ気味で、話はこれからというところで終わる。時空そのものを相手に多少なりともコンタクトが成立したらそれはそれで嫌なので、そもそもの取り扱いが難しいのはある。
  • 宇宙船やワームホール周りの設定が “Sunflower Cycle” と共通している。原始ワームホールやアグニはあちらで再利用されそう。

その他

気になった表現や固有名詞。

“Since the beginning of time, man has yearned to destroy the sun.”
エピグラフ。アニメ『シンプソンズ』の第6シーズン第25話、バーンズ社長の台詞。

light buckets
大型の反射望遠鏡のこと。

Tsiolkovsky
月の裏側にあるツィオルコフスキー・クレーター。

centaured
ケンタウロス。人と人工知能の共同作業、融合。

Gerald Bostock
ボハティの批判者の名前。ジェスロ・タルのアルバム “Thick as a Brick” は架空の少年詩人ジェラルド・ボストックの詩に基づいているという設定。

Continent of Stability
安定の島。

Doubly-magic atoms
二重魔法数原子核

Here be dragons
昔の地図で未踏地に添えられた文言。

microlensing artifacts
マイクロレンズ現象。

topological defect
位相欠陥。宇宙ひも、モノポールドメインウォール、テクスチャなど。

Ellis wormhole
通過可能なワームホールの一種。

Hossenfelder wormholes
『数学に魅せられて、科学を見失う』の著者ザビーネ・ホッセンフェルダーから。

knee-knocker
水密扉の下縁部のこと。急いでいると向こう脛をぶつけてしまう。