ハイロン・エネス “Leech”

2022年9月刊行。
分量およそ106000語、日本語訳なら文庫530ページくらい。

あらすじ

各地に医師を派遣し、古代文明の遺物と知識を蒐集する州際医学研究所、その実体は人間に寄生して集合精神を形成する微生物である。あるとき極北の鉱山町ヴェルディラから男爵の主治医が死んだとの報せが舞い込むが、各宿主の視点と記憶を共有する寄生精神である「私」がその死を把握していなかったのは異常なことだった。表向きは後任の侍医として選ばれた宿主は前任者の死の謎を解き明かすべく北へ向かう。男爵の城で解剖した遺体の首には自傷と思われる刺傷があり、眼窩からは毛のような器官を持つ未知の寄生生物の死骸が見つかった。脅威となりうる敵の出現に研究所は震撼する。私は退廃の影に覆われた古城の住人の要求に応えながら研究を進めようとするが、調査中に生きた寄生体と接触した結果、前任者と同様に集合精神から切り離されてしまう。やがて研究所に加わる前の記憶がよぎるようになり、従来とは異なる個としての自律性が芽生え始める。

用語

州際医学研究所 Interprovincial Medical Institute
文明の崩壊した世界で医療を一手に担う研究機関。有望な子どもを登用して集合精神微生物を寄生させ、医師として養成している。
ヴェルディラ Verdira
小麦石を産出する鉱山町。冬は厳しい寒さと降雪のために陸の孤島と化す。かつて鉱山労働者が男爵家に対して暴動を起こし、多数の死者が出た。
イヌルトゥス Inultus
州際医学研究所が本拠を構える都市。ヴェルディラとの距離はおよそ500キロ。

シュードマイコタ Pseudomycota
ヴェルディラの鉱山で見つかった寄生生物。
モンティシュ Montish
地下に逃れて大災害後の時代を乗り切った人々の末裔。
小麦石 wheatrock
ヴェルディラで産出する鉱石(らしきもの)。食べられる。
ヴェンティゴー ventigeau
ヘラジカに似た動物。狂暴で人間を殺すこともある。何かを探すように遺体を解体するが、決して食べようとはしない。

登場人物

私/研究所 The Institute
500年にわたり人間に寄生している集合精神。

男爵 Baron
ヴェルディラを統べる暴君。多くの器官を人工臓器で代替している。
ディディエ Didier
男爵のひとり息子。酒に溺れ、鉱山の栄華の再興を夢見ている。
エレーヌ Hélène
ディディエの妻。相次ぐ死産を経験している。妊娠中。
双子 Twins
ディディエとエレーヌの悪戯好きな娘たち。幽霊が見えると言い張っている。
エミール Émile
口は利けないが有能な召使い。モンティシュの末裔。
シルヴィー Sylvie
城のメイド。

イカー Baker
機械の心臓を持つ技士。
司祭 Priest
かつて薬草医だった語り部。呼び名は古い教会に居を構えている点に由来。

スタニスラス Stanislas
男爵の前主治医。研究所の医師が持たないはずの名前を名乗った。
ウートリー Útolie
かつて鉱山で起きた暴動を主導した女。尻尾の畸形を持っていたモンティシュ。

メドラー Medrah
アティエイ Atiey
ヴェルディラに派遣された宿主の母親。

感想

  • 著者のデビュー作。1年前から刊行が予告されていて、blurb を寄せているピーター・ワッツがブログで推薦していたので気になっていた本。
  • 雪に鎖された極寒の大地、血塗られた過去を持つ古城、残忍な男爵を筆頭にどこかしら病的なところのある一族、城内で起きる怪現象といった骨格はオーソドックスなゴシック小説。そこへ月が割れるほどの大災害を経て文明が一度崩壊した世界、古代技術のサルベージといったポストアポカリプス的設定、煙を吐く人工臓器のようなスチームパンク的意匠、寄生虫が忍び寄るボディホラーが乗っかっている。ユニークなのは語り手が人間に寄生しテレパシー的に意識を共有する微生物であるところ。初報では「『叛逆航路』と『全滅領域』が出会う」と称されていた。
  • 前情報からは知的微生物が人間の身体を戦場にファーストコンタクトを繰り広げる話を想像していたのだが、そういう話ではなかった。『遊星からの物体X』のオマージュは明らかで(寄生虫を食べてしまった犬が野放しになる)、成りすましへの恐怖も語られてはいるが、シュードマイコタは寄生虫らしく自らの繁殖に有利になるよう宿主に影響を及ぼすことはしても、語り手のような高度な知能は持っていない。そのため単なる致死性のウイルスみたいになっている。
  • ハイヴマインドの描写にしても各地で医療に従事している研究所の宿主たちの視点や言葉がシームレスに割り込んでくるくらいなもので、凝ったことはしていない。しかも序盤でネットワークから切り離されてしまうので、集合精神の寄生虫が語り手という設定があまり活きてこない。後半はテレパシーによる記憶の共有がある人物の過去のトラウマの開陳に使われている。
  • 作品を説明する際にふれられるであろう上述のセールスポイントは話が進むにつれて後景に退き、城の住人の倒錯した愛憎が明かされ血が流れ城が燃えてといった、「抑圧からの解放」を求めるありがちな復讐譚/脱出譚に帰着してしまう。面白ければそれで構わないのだが、怖さキモさが物足りず、進行がゆっくりなうえ中だるみもあって乗り切れず、終盤のアクションが始まる頃にはだいぶ興味が持てなくなっていた。
  • 集合精神から切り離された語り手が「今まで自分は研究所に人生を奪われていたんだ」となる過程に納得がいかなかった。寄生されていたのは事実でも、生涯の半分を医師として生きてきたことはアイデンティティの大きな部分を占めてもいるだろうし、多数の視点を共有するハイヴマインドの経験の密度は一個人とは比べ物にならないであろうことを考えると、そう簡単に本当の自分ではなかったと区別してしまえるものでもないのではないか。
  • 医学用語が頻出する。といってもほとんどが解剖学用語で、分子名や薬の名前はほぼ出てこない。作中の知識・技術水準の問題かもしれないし、ゴシックな雰囲気を壊さないためかもしれない。フランス語や古めの単語もけっこう多い。ベイカーや司祭はフランコ Franco という訛りで話す。タイトルの leech は寄生と医者のダブルミーニング
  • 好意的なレビューとしては Strange Horizons のものが分量的に充実している。