アクセル・ハッセン・タイアリ “Ruination v.0.5 (beta)”

2020年5月 Bleak Friday に初出。
分量およそ5600語、日本語訳なら文庫30ページくらい。

あらすじ

現実と似て非なる歴史を辿るパリでイスマトは権力に中指を立てる。ハッカーのアドリアーナは殺し屋に襲われるも、呪術師ナエリに救われる。中国製スマートフォンB78は海を渡り、やがて故郷の活動家の手に渡る。鳥占官は7人のCEOの前で万物に宿る言語の力を説く。

感想

  • 2021年に刊行予定の長編 Ruination の予告編らしき内容。断片的なシーンの集まりでストーリーと言えるほどのストーリーはない。著者がPDFを公開している。
  • 冒頭でフランスの哲学者ベルナール・スティグレールの文章が引用されている。「超産業化段階における記憶と知識の外在化は、その無限の力を拡張するものであると同時に、それらのコントロールを可能にするものでもある。そのコントロールは現在、神経化学活動とヌクレオチドの配列を統制する管理社会の認知・文化産業によって行使されている。こうして記憶の生政治の問題が提起される」。元の論文はさっぱりわからなかった(所収本のKindleサンプルに全文が含まれている。同じタイトルで少し内容の違う文章もある)。
  • イスマトのスマートフォンpalm-sized prosthesis と表現されているのはスティグレールの補綴から来ているのかもしれない(検索した記事から単語だけ拾った知ったかぶり)。突飛なスマホ視点も記憶・知識外在化ツールの文脈からだろうか。
  • イスマトのパートはウェブサービスの表記が妙なものになっている。Leetみたいなものか。アドリアーナのパートでは特にそういう表記はない。
  • イスマトは2018年のパートでは警察を虚仮にする自撮りをSNSにアップしたり、ナチを殺すゲームであるはずの「ウルフェンシュタイン」シリーズがユダヤ人その他を殺すゲームとして紹介されるレビューを目撃したりしている。2005年のパートではパリの暴動に参加しているが、暗転の後に暴動の発端となった2人の少年の死が起こらなかった世界に移動している。
  • 「来たらざるサイファーパンクの形」と題したアドリアーナの檄文は、かつてサイバーパンクが幻視したディストピアを巨大テック企業が魅力的なサービスの形で売り込んでいるのに、それを人々が看過していることを指摘し、反抗を呼びかけている。管理や誘導、抑圧のためのツールが消費者・ユーザーにとって楽しいもの、便利なものとして普及しているという今風の見方。
  • 何万人もの肉体が地下施設で眠ったまま仮想空間で暮らしていると思しき未来の描写もある。あるいはゲームの話なのか。killed が fragged や eliminated の古めかしい同義語とされている。
  • 今のところ各シーンの関連性はよく見えず、気を引く謎をちりばめたティザーといったところ。そもそも長編本編と関わりがあるのかも不明。版元によれはパリジャン・ノワールでアンチファシスト・ホラー。サイバー/サイファーパンクも改変歴史も呪術もユートピアめいた未来もあって、さらに哲学、ゲーム、ヒップホップをまぶしている。完成したら面白いものになりそう。