ピーター・ワッツ “The Wisdom of Crowds”

2019年5月 Šum#11 Hypersonic Hyperstitions に初出。
分量およそ5000語、日本語訳なら文庫25ページくらい。

あらすじ

スターフィッシュ・イニシアティヴにようこそ。地図上の緑のアイコンは300キロトン級の弾頭を積載した無人極超音速滑空体のリアルタイム座標を示しています。あなたはその目標を決めるためにオンライン上のコミュニティから無作為に選出された100万人の参加者のひとりです。キーボード、ジョイスティック、視線入力をお使いになり、点滅する白いアイコンを地球上の一点に動かして爆心地を選択してください。

感想

  • 初出はスロベニアの現代美術専門誌 Šum がヴェネツィアビエンナーレ極超音速テーマの展示に併せて発行した特集号。公式サイトで全文が公開されている。
  • 非拡散協定が結ばれているはずの極超音速滑空兵器の着弾座標を全地球規模の投票で決める。そんな真偽も定かでない未曾有の事態に直面した人類社会の動乱を追う。
  • 最初は誰もがドラマのプロモーションか何かと思って本気にせず、面白半分に票を投じる。やがて目撃情報が上がり始め、肯定派と懐疑派が様々に憶測を交わし、世界中で論争が巻き起こる。脅威の実在を示す事例が相次ぎ対応に踏み切る国も現れ、ついには国連が声明を発表するに至る。その間スターフィッシュはあらゆる対抗策を寄せつけず、投票総数はどんどん積み上がってゆく。
  • 着弾までの残り時間を示しつつ世界各地に飛ぶ語りはスピーディで臨場感がある。爆心地を対象に賭けをする予測市場の反応、ニュース解説、投票者へのインタビューを交える軽妙さも見せる。スターフィッシュがハイパースティションとして作用し信憑性をまとっていく過程を短編の尺で描くためにはこのザッピングスタイルが最適だったのだろう。
  • 瞬間的な投票者は100万人だが、投票ページを離れると自動で後任が選出されるので実際には何十倍もの票が集まる。投票はブロックチェーンに仕込まれたマルウェアで記録されており、計算能力と時間の制約、金融取引記録失効の恐れなどから介入が事実上不可能になっている。
  • ヒトデの名を冠しているのは「中枢を持たず無数の管足の多数決によって意思決定が行われるヒトデは真の民主主義の体現だから」という推測がなされるが、これと全く同じ内容が Starfish で語られている。
  • 焼失する熱帯雨林、海に沈んだ沿岸都市、氷が解けて花崗岩が剥き出しのグリーンランドなど、変貌した各地の姿が例によって織り込まれ、ちょっとした描写と用語に近未来社会の様子が垣間見える。
  • スターフィッシュの出現から7時間、ついに投票が終了する。着弾地点に選ばれたのは熱帯雨林が茂るブラジル北部の無人地帯だった。人命の損失を最小限に抑える結果に「これは人類の高潔さの証明である」と世間は湧くが、真相は闇の中。結局スターフィッシュは実在したのか、その目的はなんだったのか。
  • 最後にはタイトルにもなっている集合知に加えて倫理や気候変動や長期的思考、集合精神まで持ち出されていく。またかと正直なところ思ったが、新しい切り口は用意されている。集合知の発現についてはそんなにうまくいくのかなと腑に落ちなかった。それでも最新兵器をいち早く取り入れたドキュメンタリ風のテクノスリラーとして楽しめた。

追記(2020/01)

“Incorruptible” とは対照的に、本作では人間をやめずに世界を救う方法が模索されている。全地球規模で適切に意見を集約して集合知創発するアルゴリズムがあれば、人類を変容させなくてもよさそうだ。しかしそこに現れるハイヴマインドはあくまで全体の利益を追求し、個々の成員の幸福を考慮しないかもしれない。特定陣営の味方につけることができないため、部族主義を抱えた人間の組織はこのアルゴリズムを採用しない。


時刻表記にミスがある。0225 GMT (T minus 2:15) は 0245 GMT (T minus 2:15) が正しい。

It streaks across the skies of Panama just after ten; とあるが、グリニッジ標準時で5時のときパナマは0時なので、おそらく時差を勘違いしている。

その他

気になった表現や固有名詞。

saccadal interface
眼球運動による入力方式。他の作品でも saccade / sacc'd が動詞としてよく使われる。

weighted bootstrap
おそらく統計的推論手法のブートストラップ法。

dialectical bootstrap
弁証法的ブートストラッピング。まず1回目の推定を行い、それがずれていると仮定し、異なる知識を踏まえて2回目の推定を行う。ふたつの推定値を平均することで誤差を改善し、集合知を個人レベルで擬似的に再現する手法とのこと。

Mindflix
BCIで見るネットフリックス。

Changzheng 8
中国製ロケットの長征。作中では世界中の宇宙産業で使われている。

deepfake
深層学習を利用した画像合成技術。作中では現実世界の出来事に関するデジタル記録の証拠能力は認められていないという。作品によっては個人の有責性が問われなくなっていたりもするが、司法は実際どうなっているのだろう。

Melbourne Mushroom
発生後に原子力材料の管理がより厳格化したとある。

Wasting Plague
ヒトデの大量死を引き起こす消耗性疾患。原因は明らかになっていないらしい。

pedobot
小児型ロボットか何かと思われるがよくわからない。技術情報系サイトでスキャンダルになったとある。

Pacific Wall
おそらく海岸線の侵食に対抗して建てられた巨大な防潮壁。

Mong Khet
ミャンマーのシャン州チャイントン県の郡区。世界人口の半分を含むとされる円形の領域ヴァレリーピエリス・サークル Valeriepieris circle の中心。

the United Republic of Korea
南北統一したのだろうか。

Zero-pointer
上位1パーセントならぬ0.1パーセントの権力者か。

Heisenberg Compensator
ハッカー集団の名前。スタートレックに出てくる転送装置のパーツだとか。

Theorem Assistant
役職なんだか定理証明支援プログラムなんだかよくわからない。

Markov-tethered textbot
マルコフ連鎖を利用したテキスト生成ボット。

hunter-zappers
侵入者撃退装置の類。

multi-armed bandit scenario
多腕バンディット問題。名前の由来が面白い。