グレッグ・イーガン “Chaff”

Interzone 1993年12月号に初出。
分量およそ8400語、日本語訳なら文庫40ページくらい。

あらすじ

エル・ニド・デ・ラドロネス。生体工学が生んだ緑の迷宮、麻薬組織の根城たる〈盗賊の巣〉。コロンビアとペルーの国境付近に広がる一帯は外部からの干渉を全て跳ね除け、厚い樹冠と変転し続ける地勢をもって地図の作成すら拒絶していた。そんなおり、ペルー出身の生化学者ギレルモ・ラルゴが合衆国からエル・ニドへと亡命、奪還任務を帯びた語り手はつけ入る隙のない樹海に潜入する。

感想

  • 万物理論』関連作。エル・ニドは核攻撃で吹っ飛ばされたとの記述が同作にある。時系列は爆破と同年の2035年
  • エル・ニドのバイオマスは総量1兆トン。構造材、浸透圧ポンプ、太陽熱収集器、細胞質化学工場、生体演算/通信資源の機能を備えている。植生が水の循環や土壌の性質、降雨と侵食のパターンを操作することで地形は徹底的に改造され、アマゾン川支流の流路は変わり、道路が沼に沈み、秘密の土手道が密林中に隆起する。よって離反者の証言も当てにはならない。森は毒や枯葉剤を無害化し、ウイルスを格好の通信資源として利用して、火が放たれれば二酸化炭素や消火剤で鎮火し、栄養素に混ぜて流し込まれた放射性同位体も分離したうえで外部へと送り返す。と、こんな風に冒頭からエル・ニドの鉄壁ぶりが滔々とつづられる。
  • ラルゴは多少左翼的な思想傾向を持っていても自分の研究が軍事的に利用されることに折り合いをつけ、合衆国で30年以上研究を続けてきた。離婚を繰り返して子供はおらず、金銭面のトラブルを抱えているわけでもない。55歳になって今さら故郷の麻薬カルテルに与する理由が見えない。自宅に残された『闇の奥』には下線が引かれていた。「恐怖は飢えに敵わないし、耐え忍んだところで飢えは消えない。飢えあるところ嫌悪の出る幕はないし、迷信や信念、いわゆる主義なんてものに至っては、風に舞う籾殻にも劣る」。ラルゴは信条を捨てて自分を高く買ってくれる者の元へ走ったのか。亡命の動機が主な謎として提示される。
  • ホワイト・ナイツなるドラッグ(のようなもの)が登場。胚性ニューロンと白血球の中間みたいな物質で、マザーという改変レトロウイルスに感染した骨髄の幹細胞によって生み出される。脳血液関門を突破してお好みの神経伝達物質を放出したり、本物のニューロンと擬似シナプス結合を形成したりできる。活性化には対応する食品添加物が必要。無害な人工着色料・調味料・防腐剤を摂取することで神経化学作用をほぼいかようにもいじくれるので、コーラやファストフードでハイになれる。エル・ニド産は良質だが、悪意あるハッカーが作る粗悪品は白血病や悪性腫瘍の原因になる。
  • 語り手は対策も空しく捕まり、ラルゴから思惑を聞かされることになる(探偵プロットってだいたいこの流れな気がする。イーガンに限らず定番パターンか)。
  • ラルゴが作りたかったのはニューロンを初期化して意のままに再配線することを可能にするグレイ・ナイツだった。なりたい自分になるためだとラルゴはいう。残虐と堕落こそが世の真理、人間の変わらぬ本性だと理解して人を殺めてきた語り手は、グレイ・ナイツがもたらす膨大な可能性、あらゆる人間性が「風に舞う籾殻にも劣る」風景を前に自らの選択と人格を顧みる。
  • サイバーパンク的な筋立てとディティールは格好いい。が、最後の語り手の苦悩はやや唐突に感じられた。自然の摂理の体現こそが正しいと思い込んでいる節は端々で書かれているし、蛮性の発露として内戦やら企業の打算やらも描かれている。脳と密林を迷宮のイメージで結びつけるのもいい。それでも設定が巧く絡まったというよりは個人的なところに話を落としていい感じに幕を引かれたように感じた。言い訳を剥ぎ取られて途方にくれるのはいつも通りと言えばいつも通りの結末ではある。
  • どうやって望む配線に誘導するのかよくわからなかった。数時間集中して強く望めばいいように見えるのだけれど、間違っている気がする。
  • スーパーマーケットの蛍光管と値札にコードされた暗号で指令を受け取るのがなんか可笑しい。発表当時は好調だったそのスーパー(Kマート)は破産を経て規模を大幅縮小している。
  • 密林をブロッコリーと表現する箇所があって笑った。凝縮された森。