ピーター・ワッツ “Cyclopterus”

2019年7月 Mission Critical に初出。
分量およそ5700語、日本語訳なら文庫30ページ弱くらい。

あらすじ

深海鉱床評価のため潜水艇〈キクロプテルス〉に乗り込んだガリク。雇われパイロットのモレノは資源を根こそぎにしようとする開発企業への嫌悪を隠そうとしない。ふたりは険悪ながらも会話を続けるが、突如海中ではありえないほど大きい謎のセイシュが発生、波によって破壊されたのか海面近くの海中基地との連絡も途絶え、〈キクロプテルス〉は深海で遭難してしまう。

感想

  • 未刊行の長編 Intelligent Design の前日譚らしき内容。久しぶりに深海が舞台。初期作品との差異やアップデートも読み所。
  • ほぼ全編を占めるガリクとモレノの会話で情勢が少しずつ明らかになっていく、というスタイル。冬の熱波や水戦争、疫病といった脅威に加え、新たに登場するのが「消えないハリケーン」。海水温が上昇しているため冷えることなく水蒸気が供給され続け、陸海空を荒らしている。〈リフターズ〉では潜水艇を空輸していたが、暴風のためそれも叶わず、沿岸から沖合への移動は日単位でかかる。異様ながらも光溢れる世界として描かれていた深海の生態系も、今作では大陸棚から流入する無酸素海水で荒廃している。
  • 遺伝子工学の手が加わったアメリカオオアカイカも少しだけ出演する。塩分やpHなど様々なデータを収集できる生体環境センサではないかとの推測がなされる。イトミミズを詰め込んだような気色悪い眼が発光する。
  • 近作で取り上げられることが多いのが権力者への義憤や報復。放埓を尽くして世界を破滅へと追い込んだゼロポインター(上位0.x%の富裕層か)に民衆は憎悪を抱いている。富豪は裏切られる恐れのないドローンを重用しており、職を失った傭兵や元軍人からの恨みも買っている。そのためゼロポインターへのリンチは電磁パルスなども駆使した組織立ったものになっている。エリート対民衆の構図は昨今の政情が反映されている気もするし、初期から変わらないモチーフとも言える。
  • アンソロジーのテーマは極限状況でのサバイバルとのことだが、本作の焦点は深海での遭難よりも滅びゆく地球においてどの陣営につくかという身の振り方にある。国際海底機構がかたくなに採掘認可を出さなかったクリッパートン断裂帯に潜むもの、ガリクの正体といった多少の展開はあるが、背景を覗かせる会話に終始しているところは物足りない。長編の予告編的な内容。

その他

気になった表現や固有名詞。

Nāmaka
ハリケーンの名前。ハワイ神話における海の女神、水の精霊であるナマカ。

Sylvia Earle
巨大な浮き袋のような海中居住施設。名前は実在の海洋学者シルヴィア・アールに由来する(Her Highness をもじって Her Deepness と呼ばれているらしい。格好いい)。

White Shark Café
メキシコとハワイの間、ホホジロザメが集会する海域。話には関係ない。

Corvallis
オレゴン州西部の都市。作中ではこの辺りまで海岸線の侵食が及んでいるようだ。

Nautilus
カナダの海底鉱物資源開発企業ノーチラス・ミネラル社。

Clarion Clipperton / CCZ
クラリオン・クリッパートン断裂帯。深海採掘の有力候補地だったが、調査で豊富な生態系の存在が明らかになったとか。作中では自然遺産に登録されている。

Gaianistas
持続可能な社会と繁栄を希求する地球愛護家でいいのだろうか。よくわからない。作中では富裕層のリンチを画策するエコテロリストのようだ。

New Zealand
“The Wisdom of Crowds” でもゼロポインターの終末回避地として名前が出てきた。隠遁地としての長所はどういうところにあるのだろう(実際に超富裕層がニュージーランドに移住したりシェルタを作ったりする動きがあるようだ)。

Garbage Patch
太平洋ゴミベルト。集まっていたゴミがハリケーンによって海中に四散している。

acoustic modem
水中音響モデム。そもそも送れるデータ量が少ない上にハリケーンの影響でノイズが酷いため、深海における通信はテキストメッセージが基本という設定。

seiche
副振動、静振、セイシュ。

refugia
待避地、レフュジア。作中では脱出ポッドを指す。状況を象徴するこちらの方がタイトルにふさわしい気がする。

Cospas-Sarsat
コスパス・サーサット。捜索救助用衛星システム。

clathrate
クラスレート。メタンハイドレートみたいな化合物のこと。クラスレート・ガン仮説。