ピーター・ワッツ “Gut Feelings”

2018年12月 Toronto 2033 に初出。
分量およそ4600語、日本語訳なら文庫25ページ弱くらい。

あらすじ

マリウス・ガザリは白昼の路上でグーグル社員の男を暴行し昏倒させた。ガザリはグーグルに恨みこそ抱いていたが、当の被害者とはなんの接点もない。グーグル側は警察を介入させることなくガザリをカナダ本社へと招き、調査に協力するよう提案する。何があなたを脈絡のない暴力に駆り立てたのかを知りたい、と。

感想

  • 2033年のありうべきトロントを舞台にした近未来シェアードワールド・アンソロジーの一角。公式サイトはこちら
  • 現時点で公開されている他の参加作品を読んでみたところ、温暖化、移民問題五大湖の水位上昇と水資源の管理、スマートレンズを始めとする情報電子機器の発達など、手堅い見通しが反映されている一方で、特定国の選手を狙ったとされる「オリンピック・ウイルス」が市井に漏れて数十万人規模の犠牲が出ていたり、南米統一戦争が勃発していたりもする。トロントで進行中のスマートシティ化構想も設定に大きく影響していると見られ、本作では他ならぬグーグルが主役に据えられている。
  • なぜガザリは無軌道な暴行に及んだのかという謎がストーリーを牽引し、社員との対話を経て思わぬ真相が明かされ、最後にはカタストロフが押し寄せる。趣向は「炎のブランド」に近い。設定共有企画ながらいつも通りネタが満載の楽しい作品。
  • ガザリの友人のディオンは警官に殺された。原因はふたつ。市街全域に配置されたセンサで収集した情報を基に、グーグルのアプリがディオンの身体能力を総合格闘家並みと判定したこと、警察への反感を示したディオンのプライバシー設定がテロ対策法の下に無効化されていたこと。予断を持った警官は恐怖に駆られ、「攻撃的な態度を見せた」との理由で彼を射殺した。
  • 怨恨が動機かと思いきや、事件が起きたのは3年前だった。たっぷり3年も待ち、それから事件となんら関係のない社員を気絶するまで殴り倒すのは常軌を逸している。加えてそれほど激しい怒りを抱いていたのであれば犯罪予測アルゴリズムの網に引っかからないはずはない。基本的な事実を確かめていくうち、ふとタブレットに表示されたグーグルのロゴを認めた瞬間、抑えようのない激情がガザリの中で渦を巻く。どうもロゴがガザリの怒りを誘発しているらしい、とわかるまでが前半部。
  • タイトルが示すように後半からは腸が焦点となる。内臓に衝き動かされるような感情についてワッツはたびたび書いているが、今回は文字通り腸の細菌叢が人格に及ぼす影響を扱っている。腸内細菌は腸脳(腸管神経系)に語りかけ、腸脳は頭脳に語りかける。であれば、糞便を移植して病気を治療するように、腸内細菌を操作して「腸を煮えくり返らせる」こともできるのではないか。待っているのは兵器化ヨーグルトが猛威を振るう未来かもしれない。着想が恐ろしくもユーモラス。
  • ターゲットの指定は特定の図像を見たときに分泌される神経伝達物質を目印にするという設定。企業のロゴは特徴的かつ広く認知されているので格好の的になる。
  • ガザリが検便を要求され、検査キットの輸送が遅れているからと弁当箱をとりあえず手渡される場面が笑える。「俺が他人のタッパーにうんこするのがアルゴリズムの望みなのかよ」。「炎のブランド」に続いてスカトロ・カタストロフSFを開拓している。そういえばStarfish にも直腸からの糞便採取シーンがある。
  • VRゲーム用ヘルメット「グーグル・ゲーミウム」も登場。脳波を見るためのスキャナに転用される。「うちの製品はハードのスペックに余裕があってアップデートも安く抑えているけれど、ソニーは新製品を都度買わせようとする」なんて台詞も。
  • 細胞内共生微生物、ロールシャッハ、集合精神、生体ダイソン球など、これまで幅広いスケールで「コロニー」としての生命が描かれてきた。今回は規模が身近。
  • 世界の敵扱いされつつあるグーグルを被害者に仕立てたり腸内細菌叢という流行りのトピックを取り入れたりと時流に乗っている感がある。

その他

気になった表現や固有名詞。

sidewalk
冒頭は「ボットとドローンが歩道の洗浄に励むも血痕が落ちない」シーン。トロントのスマートシティ化を進めるグーグル関連企業の社名が Sidewalk Labs であることを考えると皮肉に見えなくもない。

Quayside
キーサイド。再開発される波止場周辺エリアの名前。

boundary issues
名前で呼んでもいいかと聞かれたガザリは「暴漢である自分は boundary issues に文句を言える立場にない」と答える。距離感くらいの意味だろう。ワッツ自身が国境でぼこぼこにされた際は話を一切聞き入れてもらえなかった。

Off the back of a Rosa's truck
off the back of a truck で物品の不正入手を意味するとか。ローザは家族経営のタイ料理屋との記述がある。ガザリは普通に注文したようだから不法の意味合いはなくただのフードトラックで、発言者である社員が揶揄を込めたか。

upstream tertiaries / third-order downstream
センサが多くて情報収集密度の高いキーサイド地区が上流のように思えるが説明はない。tertiary と third-order も何が第三次なのか判然としない。

Cinder Block
そのままの意味は軽量コンクリートブロック。地区の名称に思えるがよくわからない。

Doctor Mayor
作中の市長の通称。現在公開されている他の作品にも説明はない。オリンピック・ウイルスのパンデミックを受けて医療関係者が選ばれた背景でもあるのかもしれない。

FLAP
実在する致死的光害啓発プログラム。ビルに激突死する渡り鳥を減らすための取り組み。作中ではグーグル社屋の多機能ガラスが鳥の磁覚を狂わせている。死骸はドローンで回収してDNAバーコーディングのために寄付するから問題ない、というやりとりがある。

Stroop
ストループ効果。該当箇所を読むと場所を指している気もするが、ロゴが関係するのであればテストの方か。

GTA
グレーター・トロント・エリア。トロントを中心とする大都市圏。

voronoi
ボロノイ図。疫学の祖ジョン・スノウはボロノイ図に類するものを作成してコレラの感染源を突き止めたとか。

Libtards / Altzis
前者はリベラルの蔑称らしい。後者はおそらくオルタナ右翼

翻訳

原文はこちらを、翻訳は『2010年代海外SF傑作選』2020年12月発行の初版を参照。

episode
エピソード(p.84)

発作じゃないだろうか。

a glorious invisible intelligent insulative ecofriendly solar-energy-collecting barrier
透明で断熱性の高い、エコフレンドリーで太陽エネルギーを蓄える障壁(p.84)

intelligent が抜け。

at least, that was the slogan doing the rounds at Quayside Management
これが港湾地区マネジメントのスローガンだった(p.84)

そんなスローガンが港湾地区管理部で広まっていたのだが(内輪のメモが流出)。

They're telling me to be informal.
この話は非公式でって言われてるの(p.87)

名前で呼んでいいか尋ねているあたり、形式ばらず気さくにいけ、とか指示されているのでは。すぐ後の boundary issues は馴れ馴れしさとかそんなニュアンスかと。

A half-hearted half-assed reminder that guilt goes both ways, but he doesn't even believe it himself at this point.
罪悪感が中途半端に攻撃と防御に転じた言葉だったが、彼自身、その時点ではボットの失敗など信じていなかった(p.87)

何が言いたいのかよくわからない箇所。責任があるのはお互い様だという半端な指摘、という感じなんだろうか。

その時点ではなく(指摘している)今この瞬間も、では。

It's how we keep our upgrades so affordable.
将来のアップグレードに対応できるようにね(p.89)

そうやってアップグレードを手頃な価格に抑えている。

does an unemployed brother from the Cinder Block get to beat the shit out of a white collar for the price of some half-assed MRI scan?
スラム住まいの無職のブラザーがホワイトカラーを半殺しにしたからって、そいつを劣化版のMRIスキャンにかけようと思うんだ?(p.89)

ホワイトカラーを半殺しにしておいて、代償が粗悪なMRIスキャンで済むのか。

Ezra Keogh
エルザ・キーオ(p.90)

エズラ

since Doctor Mayor started whipping up the base
グーグルを攻撃しはじめてから(p.90)

支持層を煽り出してから、だろうか。

but at least three upstanding citizens of Toronto the Good stood by cheering today while you kicked Travis' ribs in.
今日あなたがトラヴィスの肋骨を蹴ってへし折ったあとだけで、少なくとも三人の〝善なるトロント〟市民が立ち上がって、喝采されてるわ(p.91)

あなたがトラヴィスの肋骨を蹴ってへし折っている間、善なるトロントの良識ある市民が少なくとも三人、そばで声援を送っていた。

Google Fitness showed Dee running 15K four times a week. Google Fitness showed him doing 30 chin-ups at a stretch. Google fucking Fitness showed reflexes and fast-twitch muscle response consistent with a middleweight practitioner of Mixed Martial Arts.
グーグル・フィットネスはディーに、週四回の十五キロのランニングを課した(後略)(p.91)

グーグル・フィットネスは運動を指示するのではなく、記録をつけるだけなのでは。で、プライバシー設定が無効化されていたものだから、トレーニング内容やら格闘家並みの反射神経と速筋やらが可視化されて、警官が偏見を持った、と。さすがにアプリが悪漢を養成していたって話ではないと思う。Chin-ups は腕立て伏せじゃなくて懸垂。

Didn't even bother trotting out 'thought he had a gun.'
〝銃を持っていると思ったんです〟とまで言ってたっけ(p.92)

銃を持っていると思った、なんて常套句を持ち出しもしなかった。

the spooks and the suits and fucking ICE-9
すかした白人のスーツ族のため、ICE‐9のために(p.92)

「スパイとスーツ族とICE-9」。ICE-9が何かはよくわからない。

You're not even a Quayside resident, you're a third-order downstream variable
あなたは港湾地区の居住者ですらない三桁も下流の変数で(p.93)

(港湾地区に比べるとデータの少ない)下流の変数だけど、それでも予測は簡単、というニュアンス。third-order はよくわからないが、ランクが低そうなことはわかる。

Send the bodies to FLAP for barcoding.
鳥類保護団体FLAPにバーコードを読み取ってもらってる(p.94)

たぶんDNAバーコーディングのこと。

If we could get back to
もし昔に戻りたいって(p.94)

流れからすると「話を戻したいんだけど」か。

judgment calls
裁定コール(p.96)

独断とかそんな感じだろうか。

I'm a wrecking ball.
銃弾(p.97)

解体工事用の鉄球。直後の撃鉄云々に合わせたか。

Can't swing a cat without hitting a logo
ロゴをクリックしないと何もできないから(p.99)

狭いオフィスはロゴだらけ。慣用句らしくするなら「石を投げればロゴに当たる」とか。

you happened to wander by outside
あなたが外からふらっと入ってきて(p.99)

「ふらっと外を通りかかって」とかの方がいいかも。

Had a hunch. Tried it out.
他にもたくさん。試してたの(p.100)

ピンと来て、試してみた。

Real management material.
これこそ人材管理の問題だわ(p.100)

「(マラーノは)まさに管理職の鑑ね」という皮肉か。

She's immersed in rapid-fire AR now:
自動小銃を連射するように言葉が飛び出してくる(p.102)

ARに没頭している。

They spent millions making sure your brain jizzes out its own special cocktail whenever it sees that special Fisher-Price template. You ask me, bugs're keying on the cocktail.
何百万ドルも費やして確認したの(中略)細菌がカクテルの肝なの(p.103)

主語がないとグーグルが確認したように読めてしまう。研究者たちは、とでもした方が良さそう。後半は「細菌はそのカクテルを目印にしてるみたいね」。

stratified Voronoi
ヴォロノイ分割(p.104)

stratified analysis とか stratified sampling だろうか。なんか階層別的な。

Anything that shows up in less than a hundred's almost bound to be an artifact. I'm pushing it as it is.
百以下なんてがらくた扱いよ。わたしだってそう(p.104)

「100件未満の事象はほぼ確実にアーティファクト(人為的なもの、データのエラー)」ではないかと思う。I'm pushing it as it is. のニュアンスはよくわからない。

Mom's wife

さりげない同性パートナー表現、でいいのだろうか。

She doesn't seem to have noticed the rock.
振動には気づいていないようだ(p.106)

投石。

The defender's hands thrown wide against his assailant; staggered, off-balance, he collides with the shoulder of some armoured machine bolted to the floor. Blood courses down his face onto his navy-blue mall-cop uniform.
防御側が大きく手を振り上げ、相手はよろめいてバランスを崩し(後略)(p.107)

これだとよろめいて怪我をしたのは相手=犯人になってしまう。血を流したのは警備員。

Maybe even started it.
最初からそうだったのかもしれない(p.109)

(誰かが、何かが)これを始めさえしたのかもしれない。

We're the bad guys in every screed anyone ever wrote about the Panopticon, we're the one thing the Libtards and the Altzis agree on.
誰かが刑務所の監視システムについて長々と文句を言えば、わたしたちはつねに悪役で、くそリベやくそナチが同意するのもわたしたち(pp.109-110)

わたしたちは監視社会について書かれた駄文に必ず登場する悪者で、リベラルとオルタナ右翼もグーグルに対しては共通見解を持っている。

Only not any more, right? We've just gone from villain to victim. [...] It's actually pretty fucking brilliant, as Hail-Mary PR strategies go.
もうたくさんだと思わない? だから悪役から犠牲者に変わった。(中略)マリア様頼みのPR戦略としてはうまくいったわ(p.110)

「だから」ではハンコックが主導したように読めてしまうのが気になる。「でも、これからは違う。わたしたちは悪役から犠牲者に変わったんだもの」。

「うまくいった」もハンコックの思惑っぽく見える。ここは「なんて華麗で見事な神頼みPR戦略なのかしら」という皮肉だろう。

its bright shiny carbon-neutral grille
二酸化炭素を排出しない(p.110)

カーボン・ニュートラル素材。排出しない、とまで言うのは定義的に微妙かも。