ピーター・ワッツ “Contracting Iris”

2021年9月 Stoneburner “Apex Predator” の特典として初出。
分量およそ10200語、日本語訳なら文庫50ページくらい。

あらすじ

母親の葬儀を終えた嵐の夜、アイリスは金と緑に染まった空から降りそそぐ雨に目を焼かれた。一時的に視力が落ちて瞳孔が針先ほどに収縮したその日以来、アイリスは奇妙な症状に見舞われ始める。謎めいた夢、夢遊病不眠症、しびれ、エイリアンハンド症候群。未知の感染症が疑われたが、原因究明は捗らない。やがて記憶力や思考力が向上し、目と血管はほのかな生物発光に輝いて、夜の街を駆ける活力があふれ出す。そうしてふと気づいたときには、母と死別した悲しみすら消えていた。

感想

  • Stoneburner の新作アルバム収録の同名曲をもとにしたコラボ作品。ダウンロードURLはブックレットに記載されている。同バンドは『ブラインドサイト』にインスパイアされた Technology Implies Belligerence も発表している。
  • タイアップ作品を書いたというコメントはブログで確認していたものの、発表形態がはっきりしないので様子見していたら、パッケージ版にリンクが添付されているとのバンド側のインタビュー発言が見つかり、おとなしくCDを購入した。著者からして発表を把握していないのには苦笑した。
  • 奇妙な天文現象、コントロールの喪失、看取りからの逃走、人工知能との対話、寄生と共生、宿主の行動操作、知的微生物、闇夜を彩る生物発光、血管や神経のネットワークなど、おなじみの要素とモチーフで構成されている。
  • アイリスは多発性硬化症(MS)をわずらう女性。人工知能に投入される前のデータからバイアスを除去する仕事で食いつないでいる。独立不羈のシングルマザーである母に「あなたは強い。あなたにはだれも、母親の私でさえ必要ない」と言い聞かされて育つも、癌に侵された母の臨終には臆病さから立ち会えなかったことを引きずっている。硬化症の発症は母も含め誰にも明かしていない。
  • 影の生物圏のイメージを中心に、「見ようとしていないもの、探し方を知らないものは目に見えない」と繰り返される。フローチャートに従うばかりでデータベースにない症状に取り合ってくれない診断ボット、バイアスのかかったデータセット過学習に陥ったシステムといったテクノロジー面も、限定された視野を基調としている。適応度地形の局所最適の比喩にも通じるか。
  • 近作の感染ものとは趣向が異なり、ユーモア成分、パニック成分は薄め(マンガンノジュールを熱水噴出孔に投じて冶金学を実践するクジラとか体熱で氷にトンネルを掘るペンギンとか樹上生活するタコとか、その手の法螺を飛ばす男は出てくる)。ひたすらじめっとしているところは初期作品的で、静かで地味なテイストの短編。何度か読み返してみてはいるが、焼き直しっぽいせいかあまり面白くない。個人の視点で進んできた話がするりと種属を越えた混淆に至る幕引きはいい。tide line / treeline / waterline / shoreline と線をまたいでいって、種の境界線のない巨大データベースの誕生をほのめかす。
  • 微生物が持つ知能の例として、巡回セールス問題に応用される粘菌コンピュータが引き合いに出されている。いかにも好きそうな方向性ではある。

その他

気になった表現や固有名詞。

Telehealth
遠隔医療。作中では診察ボットに必要性を認めさせないと人間の医者にかかれない。

therapeutic tulpa
セラピー用タルパ。ボットを説得しきれなかったアイリスは使用を勧められた。

Alaskapox
アラスカ痘。近年になって実際に症例が報告されているウイルス。

Brain Wash
アイリスがフリーランス契約を結んでいる会社。

Shadow Biosphere
影の生物圏。既知の生命とはまったく異なる生化学的構造を持つために人間の検知を逃れているとされる仮説上の微生物叢。

Cane Toad
オオヒキガエル。有毒の侵略的外来種。作中では食事に供されている。

efference copy
遠心性コピー。

Pocket Watson
ポケット・ワトソン。IBMワトソンだろうか。

the Tusk
ブリティッシュコロンビア州の山 Black Tusk のことか。

portable MRI
可搬MRI。現実には頭部に限定した試験段階にある。作中では全身スキャンが可能。

Chaser ambulance
巡回救急車か。ambulance chaser は事件漁りをする悪徳弁護士を指す表現とのこと。

progressive inflammatory neuropathy
進行性炎症性ニューロパシー。食肉加工場でエアロゾル状になった豚の脳を吸い込んだ従業員たちが発症したのだとか。

quorum sensing
クオラム・センシング。

microbes can cross whole galaxies
オウムアムア観測を機に唱えられた銀河間パンスペルミア説。

E-13
伝染病か何かのようだが、アルファベットと数字だけでは見当がつかない。