R・スコット・バッカー “Crash Space”

2015年11月 Midwest Studies in Philosophy Volume 39 に初出。
分量およそ8200語、日本語訳なら文庫40ページくらい。

あらすじ

視点デヴァイスの使用者である〈リグド〉のティムは、彼女のジェシカと乗っていた地下鉄車内でネオラスタファリアンの男と出会い、非合法アプリ〈ヒッター〉の存在を教えられる。それは情動制御に課せられた制限を無効化し、国が定めるパラメータを超えた調節を可能にするという。広告屋の上司デリクにも知らせようとその足で向かったささやかな社員パーティの場には、みすぼらしいなりをしたベースラインの男、グレンが同席していた。非人間的な拡張に抗議しようと訪れたヒューマニストに、ティムたちはリグドのなんたるかを見せてやることにする。

用語

リグド Rigged
拡張機器の装着者。
ドイリー Doilie
生活保護受給者。拡張を受けていないベースライン。リグドを非人間的と見なすヒューマニストが多い。

ファースト・パーソン First-person
視点(POV)デヴァイス。脳内に張り巡らされるナノワイヤの網、頭の中のHUD。製造元は中国の総合家電メーカーであるシャオミ。
ソート・テキスト thought-text
思考で打てるテキストメッセージ。
エース Ace
登場人物が互いに送信する評価点。

情動制御 Affect Regulation
国が定める「正常」パラメータの範囲内で情動の強弱を調節できる。作中で操作しているのは不安、陽気、動揺、欲求不満、多幸感、親密さ、攻撃性、リビドーなど。
ヒッター Hitter
情動制御の制約を無効化する。共有機能で他人の設定もいじれる。
直観グーグル Intuitive Google
使用者の興味を予測して検索を行う。
アフロディテアドニス Aphrodite / Adonis
相手に魅力的な姿を投影するARアプリ。
銀の舌 Silver Tongue
気の利いた台詞を提示する弁舌アプリ。
令色フィードバック・エミュレータ affectation feedback emulator
名優の表情や仕草を模倣して感情表現に幅を出す。
風水オーヴァレイ Feng Shui Vir Overlay
リグドになると多少スピリチュアルになるとされている。
カルマ Karma VO
文脈に応じて取るべき道徳的行動を示してくれるヴァーチャル観察者。

チーズ Cheese
濃密な体験、およびその瞬間を捉えたスナップショット。
ダブル・ディッピング double dipping
情動の設定と外部環境からの刺激とが噛み合った有頂天の体験。「正常」パラメータから外れたことで関連する情動の調節が一定時間できなくなってしまう。
性格監査 personality audits
カップル・夫婦は気になった瞬間にタグを付けて後の話し合いに用いるらしい。
除外条項コミュニティ Omit Clause Community
衛星写真やオンライン検索からの抹消を金銭で購ったプライバシー保護区。

感想

  • 読んだのは著者が公開している査読前版
  • 神経インプラントによる感情操作というと、人格の連続性や感情の真贋をくよくよ内省する話をイメージしてしまうが、本作のリグドは人工的な制御に屈託を見せない。語り手のティムは「蛇口を取りつけて意味のカップが空になるわけがない」とヒューマニストの非難をあしらう。便利な道具は道具として享受するプラグマティックな態度がなんだか新鮮だった。
  • 情動制御には国が定義する「正常」という枷が嵌められている。合法な人格をトップダウンで定義するなんて特大の火種に思えるが、実際のところ制限を一切課さないわけにはいかないだろう。作中では消費者に消費衝動のコントロールを委ねるのは経済的リスクが大きいとの判断が産業会議で下され、羨望 envy は制御の対象外になっている。また度の過ぎた多幸感に浸り続けることも許されない。快楽レバーを押しまくるラットになっては困るからか。意識状態の合法性/非合法性についてはメッツィンガーの『エゴ・トンネル』第9章で読んだこともあって興味深かった。未成年の権利や育児と絡めてもよさそう。
  • 無拡張人類であるグレンに言わせれば、リグドは人間ではない。ヴァーチャル・ブティックで買い求めたアクセサリーの塊、クレジットカードの明細書、魂が収まっているべきウォークイン・クローゼット、人格も魂もない虚ろなゾンビだ。一方リグドのティムたちからすれば、不安や羞恥をありありと顔に浮かべ、負の感情に振り回されて泣き叫び、自己のあり方を選べもしないベースラインこそ哀れな獣に見える。
  • 人は生理的な反応を共有しているから、社会的なシグナルを読み合ってコミュニケーションを取ることができる。例えば赤面からは羞恥や怒りが、身体の震えからは緊張や恐怖が伝わってくる。ところがリグドはそうした反応を自在に変更できる。「ベースラインの間では、侮辱は必ず不随意の反応を引き起こす。身構えたり、憤ったり。でも俺たちはリグドだから、ものすごく敵意のこもった辛辣な言葉だって笑い飛ばせる。選択できるんだ。グレンが向けてくる嫌悪感にも好きな分だけ意味を持たせられる」。主観アプリを持たないグレンは、会話しながらテキストチャットも交わすティムたちの身振りを正しく読み取れず、ヒッターで箍の外れたリグドの狂態を前に怯えるしかない。感情操作テーマはパーソナルな内面の葛藤が中心になりがちだが、本作ではソーシャルな対立・分断が描かれていて面白かった。著者によるこのブログ記事も短くまとまっていて、ちょうどいい補助線になった。
  • 「クラッシュ・スペース」はバッカー考案の用語。人間の認知能力は祖先が直面した環境に対する適応の束なので、ヒューリスティックの信頼性は環境の安定性に依存する。環境の変化で解決すべき問題の性質が変わり、先祖伝来の直観が不適応になる領域がクラッシュ・スペース、ということらしい。本編ではそれが自己の改変によっても生じる場合が描かれている。
  • 職業人と無用者層との格差、除外条項によるプライバシー、ニューロマーケティング、各種アプリ、リグドの体験ジャンキー文化など、ほのめかし程度のものも多いが、背景設定も色々と盛り込まれている。
  • ただ、いくつか記述に食い違いがある気もした。グレンは除外条項のせいでシャオミの所在地がわからず、代わりに広告担当者のデリクの元へ抗議しに来たのだが、そのデリクの家も除外条項コミュニティにある。まあ物理的に存在するのだから場所を突き止められないわけではないか。それからパラメータの無効化ではないリセットという機能もあるようだが、リグドになってからベースラインに戻る人はひとりもいないとある。今の自分が気に入らずリセットしたがる人もいるそうなので、設定値の初期化やバックアップのことかもしれない。
  • 剥き出しになった人生の無意味さ無根拠さと生真面目に対決するのもいいけれど、もっと軽率に心をいじる話も読みたいという気持ちにしっくり来る短編だった。