ピーター・ワッツ “Maelstrom”

2001年10月刊行。〈リフターズ〉三部作の第二作。
本文分量およそ106000語。日本語訳なら文庫530ページくらい。
前作 Starfish の感想はこちら

あらすじ

ベヒモス殲滅のためチャナー噴出孔に加えられた核攻撃は大規模な地震津波を誘発し、北米西海岸に死者数百万人の被害をもたらした。辛くも生還を果たしたレニー・クラークは自分と仲間を食い物にした世界への憎悪に衝き動かされて東へ進み続け、そうと知らぬまま大陸にベヒモスを蔓延させてゆく。広域監視ドローンの操縦士スウ‐ホン・ペローは西海岸の環境難民キャンプに現れたクラークの姿を捉え、その旅路を追う。CSIRA、複雑系不安定性対策局のアキレス・デジャルダンはグリッド・オーソリティの指令で封じ込めの任に当たるうち、ベヒモスとビービ基地、地震の関連に気づく。そしてクラーク同様に生還したリフターのケン・ルービンも独自の調査で事態を把握、GAと協力してクラーク確保に乗り出す。一方、インターネットの後継、自己進化する人工生命が跳梁する情報の海「メイルストロム」では世界の破滅と結び付けられた「レニー・クラーク」のミームが拡散し、その大渦は現実社会をも巻き込んで広がっていた。

感想

舞台を陸上に移しての三部作第二作。破滅しゆく地上を巡るロードノベル・サイバーパンクといった趣。神経科学に基づく行動矯正といったバイオ的側面はもちろん、テレイグジスタンスによる偵察/監視、情報生命溢れるネットなど電脳色も濃い。気候変動、自然災害、疫病によって北米のみならず全世界が慢性的な混乱の渦中にあり、ダメージ・コントロールに関わる人員の罪悪感の制御が焦点のひとつになっている。

CSIRA、通称エントロピー・パトロールのロウブレイカーたちは頻発する災害や伝染病、メイルストロム上で発生する電子野生動物の嵐に対応するに当たり、時に大きな犠牲を伴う決断を迫られる。そこでレトロウイルスによる生理学的な行動矯正技術が用いられる。ギルト・トリップ(Guilt Trip)は大義のために決断を下す際、罪悪感や良心に駆られて間違った判断へ傾かないようにする薬物で、ギルト・トリップ影響下の決断に悩まされないようにするのがアブソリューション(Absolution)。またギルト・トリップは機密保持違反や反逆などの敵対行動を禁止する鎖でもある。着想元は宿主を操る寄生虫トキソプラズマや槍形吸虫)とのこと。ロウブレイカーはパターン・マッチング能力も増強されていて、どことなく吸血鬼の前身といった感じがある。

タイトルにもなっているメイルストロムはインターネットの発展形で、変異し進化するウイルス、ワイルドライフが電子的生態系を構築している。そんな電脳空間でとある理由からレニー・クラークのミームが大増殖し、現実世界においても破滅をもたらす天使、メルトダウン・マドンナとしてクラークを祀り上げるカルト的ムーブメントが発生していく。

前作はごく狭い深海における人間関係に重点が置かれていた。本作はより広い地上の世界が前面に出ている。海面上昇、砂漠化、環境難民、耐性菌、水戦争などの問題が進行した情勢はとても厳しく、被害拡大を食い止めるための措置も勢い苛烈になる。ここで取り上げられるのはトロッコ問題で、同様のテーマは近年の短編でも扱っている。人間性を問う上で特殊な状況を設定し、人間性の核心とされるものを技術で除去・変質させてしまう手法はとてもSFらしい。もっともベヒモスとの戦いは世界の存亡がかかっているがゆえに構図としては単純な感じもあり、もう少し微妙な葛藤が生じるシチュエーションも読みたい(もやもやするという点では “Collateral” あたりが良い。“Incorruptible” はあえて極端な解決策をぶちあげることを意図している気がする)。

余談

  • エピグラフの聖書からの引用が決まっている。「ベヒモスは牛のように草を喰らう」「人はみな草である」。
  • 作中では dryback / corpse / haploid / sockeye など独特なスラングが使われているが、sockeye の脈絡がよくわからない。ニュアンスは死に近いから、産卵後のベニザケが死屍累々となる様に由来しているのかもしれない。
  • たまに男性がr選択者、女性がK選択者と表現される。「卵形成の書」っぽい。