ピーター・ワッツ “Kindred”

2018年7月 Infinity's End に初出。
分量およそ3800語、日本語訳なら文庫20ページくらい。

あらすじ

当初は肉体からなる集合精神だった「わたし」は、今や数立方天文単位の思考雲となって太陽系に広がっていた。全人類を収めたアーカイヴから抽出されたひとりの男、かつて作家だったフィルを相手に、「わたし」は人類の顛末を語る。生命と苦痛について、愛や善悪といった錯誤について、それら全てを捨て去った後で残ったものについて。

感想

フィル、作家、薬物乱用歴。これだけで察しはつくかもしれないが、「現実は信じることをやめても消え去らないものだ」とのフレーズが参照されるあたりで、語りかけられているのは(推論によって再構成された)フィリップ・K・ディックであることがわかる。タイトルはディックのミドルネームでもある。よりにもよってディックがシミュレートされているのがまず可笑しい。

宇宙空間に広がるダイソン球的な知性という設定は「島」と似通っているが、話としては「島」をひっくり返した感じになっている。「島」の語り手サンデーは「わたしは神を信じていないし、普遍的な善や絶対悪も信じていない。機能するものとしないものがあること、それだけを信じてきた」と語り、人類よりもはるかに巨大で賢く見える島に「闘争なき生命、罪なき知性」を期待して裏切られてしまう。本作では、サンデーが期待したような境地に到達した人間の末裔が登場し、侵略を受ける側として描かれる。

善悪 good and evil や正邪 right and wrong を感じ取る直観 gut feeling にも有用な過去はあっただろうが、今となっては非効率的で不合理なところがある。ここはもうサバンナじゃない、とワッツは度々書いていて、今回もおおむねそんな感じ。普遍的な悪があるとすればそれは苦痛であり、普遍的な善は苦痛を終わらせることである。そして生命こそ苦痛にほかならない。そんな結論に至った「わたし」は涅槃に近い状態を実現する。

そんなところへやってきた異星知性パーマーによる侵略を、「わたし」は抵抗もせず受け容れる。従容としているのは存在しない方がいいという考えからではない。やり残したことがないので存在を続ける積極的理由が特になく、自らの生に固執してパーマーに人類のアーカイヴを解凍されてしまったら途方もない量の苦しみが生じるからだ。自己保存を最優先とする存在バイアスはとうに解消されている。自己破壊に躊躇いは一切伴わない。

最後に残ったものはやさしさ kindness だと「わたし」はフィルに語る。ここでもタイトルが効いてくる。つまり部族的な愛でつながる血族 kindred であることをやめてようやく、人間はやさしい人間 humankind になれたのだ(人間という垣根もない単なる kind と言った方がいいかもしれない)。

続けるか、それともやめるのか。その根源的な問いに対する答えがこういった形になるのはワッツの生命観を知っていればそれほど意外ではないし(むしろ意外だったのはネガティブ功利主義やアンチナタリズムの観点をこれほど直截な形で提示してきたこと)、まだまだ書き尽くしていないという印象がある。そもそも短編ひとつで済むテーマでもない。存在の行き着く先がどうなるのかは熱死の果てまで続くであろうエリオフォラの旅でも探究され、今回とはまた違った答えを見せてくれるはずだ。

余談

  • パーマーの名前はたぶん『パーマー・エルドリッチの三つの聖痕』から。パーマーの出身星系 KIC 8462852 は不規則な減光が観測され、人工物による遮光ではないかと騒がれたとか。
  • 自我を宇宙スケールに引き伸ばそうとすると光速やレイテンシの問題にぶち当たって人格は統合を維持できず分化する、みたいな話を「島」でしているのだが、今回はそれをワームホールで回避している設定。
  • 「エンパシーを欠いていてもシンパシーはある」と言っているが、逆な気がする。ただ意味の区別がややこしい単語なので、検索しても解説によってエンパシーに相手と同じ感情が伴っていたりいなかったりする。状態としての感情は(辺縁系がないため)生じないが、相手の感情を理解する能力は高いという意味だろうか。
  • トーマス・メッツィンガーが考案した思考実験「慈悲深い人工知能によるアンチナタリズム Benevolent Artificial Anti-Natalism」が元ネタかもしれない。
  • 「完全に合理的な超知能は自らの存在を終わらせることをなんとも思わないはずだ。積極的に自己を破壊するに足る理由がある、あるいは存在を継続する明確な理由がないと判断したら、いかなる認知バイアスにも妨げられることなくその認識に従うだろう」とメッツィンガーは書いているが、要するにバイアスの有無は死んでくれないとわからないわけで、いまいち釈然としない。存在をよしとされる理由ってなんなの、という話でもあり。
  • 存在バイアスを扱った日本国内作品としては天野邊『プシスファイラ』や新城カズマ「アンジー・クレーマーにさよならを」が面白い。

翻訳

原文は Infinity's EndKindle を、翻訳は『BABELZINE Vol.1』第1版を参照。

So I didn't just read your books;
だからぼくはきみの本を読んだわけじゃない(p.12)

読んだだけじゃない。

My bloodline is the most important thing in the universe.
私の血族はお前の血族よりも重要だ(p.14)

宇宙で最も重要だ。

without love and art and honor getting in the way.
愛や芸術や恐怖が邪魔をしなければ(p.15)

honor と horror の見間違い。

I've [...] experienced every peak of ecstasy and every pit of despair a trillion times over.
すべての絶頂を味わい、そのうえでその何億倍という絶望を体験してきた(p.17)

倍数ではなく回数か。それぞれ幾億回となく味わった、みたいな。自信なし。

Someone [...] reprograms you with sights and sounds and instead of feeling used you feel inspired.
視覚と聴覚をプログラムしなおし、そしてきみたちは何かを悟った気になる(p.18)

光や音でプログラムを書き換えられても利用されたとは感じず、何かを悟った気になる。

That's what happens when you drag your past along with you into the future;
進化しきれないとそうなるわけだ(p.20)

ここは意訳した結果、進化の誤用になってしまっている。

A piece of the enemy for Palmer to take apart and examine.
取り出して検分するためのパーマーにとっての敵(p.20)

敵の一部、部品。

Palmer's tied one hand behind my back, and other's busy trying to keep everything integrated.
パーマーは片方の手でぼくを掴み、もう片方の手でせっせと全ての統合を保とうとしている(p.22)

片手をパーマーに掴まれていて、もう片方の手で全ての統合を保つのがやっと。