小川哲『ユートロニカのこちら側』

過去再体験技術「ユアーズ」がお蔵入りになった理由を考えた。

一読して気になるのは第二章「バック・イン・ザ・デイズ」。他の章と比べて分量が少なく、舞台はアガスティアリゾートから離れたマイン社の東京八王子ラボであり、登場する過去再体験サービス「ユアーズ」の運用開始が無期延期されることも断章によって予告される。内容は両親を故郷もろとも災害で失った男が仮想現実上に構成された過去の実家を再訪し、父の真意を知ることで少しだけ屈託がほどけるというもので、ほろ苦い一挿話、全体の中で少し浮いたエピソードに見えなくもない(著者インタビューによると浮いてしまったのは連作を想定していない段階で書いた第三章とのことだが)。

ユアーズ運用の延期はあくまで技術上の問題だとされている。第二章時点ではシミュレーションの空白やロード時間といった欠点はあれど一定の水準を達成しており、技術さえ追いつけば使い物になりそうな気配はある。しかし作中で数十年が経過してもユアーズは日の目を見ず、物語はそのまま幕を閉じる。

運用無期延期の理由は明らかにされないが、少なくともマイン社にとって有用でなかったことは間違いない。作中論文『アガスティア・プロジェクト』が唱えるように意識のない永遠の静寂=ユートロニカがマイン社の悲願であるとすれば、ユアーズはそれを邪魔する技術だったということになる。

ではなぜユアーズはユートロニカへ至る道の障害になるのか。それはおそらく想起に意識の濃度を高める作用があるからだと思われる。

アガスティアリゾートでは「スケジュールを埋めること」が推奨される。スケジュール消化に専念すれば余計な内省にふける時間は短くなり、意識の発生源たるストレスが減る。一方で過去再体験が提供するものは内省に他ならない。ユアーズはユートロニカと正反対の方向を向いているのである。

ユアーズには「人間の心は、実際の過去と改変された都合の良い思い出とのギャップに耐えられるほど頑強ではない」と疑義が投げかけられる。この点は第一章および第六章でもふれられている。小さな嘘をついても脳は都合の良い偽記憶を作り出し、やがて嘘のほうを真実だと思うようになる。そういった合理化の幻想をウェアラブル端末による常時映像記録は剥ぎ取ってしまう。

羞恥や屈辱、怒りと結びついた記憶の反芻は当然ストレスを発生させる。好感に満ちた記憶ならば思う存分ひたれる、ということにもならない。その記憶は往々にして脳が忘却と編集を介して脚色したものだからだ。しあわせや好きという感情は未来からの容赦ない精査に耐えられない。少年時代は笑えた「もっとも数多くの人間を殺している動物はマクドナルド」なんてジョークもたやすく色褪せ、何が面白かったのかわからなくなる。第二章のように過去と折り合いをつけられるケースは稀だろう。いずれにせよユアーズは高い確率でストレスを生む。そんな技術の居場所はユートロニカに存在しない。

第一章にそっと差し込まれたマドレーヌと紅茶は、本作が想起を巡る話でもあると暗にほのめかす。思い出や忘却についての記述は他にも作中そこかしこで見られる。第二章はその主題を明示するために置かれたのではないかと思う。続く第三章の警部スティーヴンソンは大事な命日を忘れて婚約者を傷つける。自らの出自、環境、過去に囚われた人間の苦難は第四章以降で一層浮き彫りになっていく。

アガスティアリゾートは積み上がった過去の記録に基づく忘却という逆説的な解放を住人へ提供する。誰しも振り払いたい過去を背負っているがために、ユートロニカへ至る道にきっぱりと背を向けることは難しい。