ピーター・ワッツ「天使」

2010年12月 Engineering Infinity に初出。SFマガジン2011年8月号に訳載。

感想

『神は全てをお見通しである』収録の解説にこんなことが書いてある。

短編「天使」(二〇一一年発表)においても、ある知性が意識を捨て去る・・・・瞬間を、言祝ぐべき受胎告知と降誕の場面を上書きする光景として描く、という手法が鮮やかに用いられています。

聖書と重ね合わせる効果の程は正直わからないが、abort に堕胎の意味もあることを考えると少し面白い。

傍点は「まさか意識を得る話だと思っていませんよね」と言いたいのだろう。改めて本文を確認すると、アズラエルが自意識を持っていないことは終盤に念押しされている。

アズラエルは今でも、鏡に映る自らの姿を認識できない。〈アズラエル〉という言葉の意味も、自らの胴体にその単語が刻まれていることも知らない。今でさえ、アズラエルはただ与えられたルールに従っているだけだ――

意識に相当するのは人間の司令部=〈天界〉だろうか。アズラエルからすれば人間の判断は処理に割り込んでくる夾雑物でしかない。

アズラエルはすべてを送信する。時刻と位置座標、戦術的精査、付随的損害分析を。長い、長い数秒が過ぎる。純粋に電子的なコマンド・チェーンなら、この程度の入力処理にこれほどはかからないだろう。

ワッツ作品のキーワードのひとつに gut feeling がある。例えばトロッコ問題で論じられるような忌避感、良心の呵責、双曲割引その他のバイアスが含まれている。更新世由来の直観が害を生む局面に人類は踏み込んで久しく、このまま進めばその感覚に手が加えられるようになる、という認識が各作品に共通している。孤独感も古代から変わらない感覚のひとつだ。孤独に対する身体的反応と社会構造とのズレはなくなっておらず、登場人物は友達という存在に少なからぬ意味を見出す。それは吸血鬼さえ例外ではない。

本作の場合、自然選択ではなく目的をもった人間が設計する機械なりの gut feeling が描かれている。自我や意識といった大きな話をする前に、機械にとっての情動はどのようなものになるかを探っているように思う。生物の恐怖が命を脅かす苦痛に向けられる一方で、アズラエルの恐怖は任務の失敗=付随的損害の超過と結びつく。悲鳴の予測が恐怖に繋がる過程がソフトとハードの両面から書き込まれていて格好いい。とりわけ素晴らしいのは瀕死の者に慈悲の一撃を施す(かに見える)シーン。苦しみを長引かせない行為に無機質な機械の論理が到達する様に痺れる。

追記(2019/04)

月と太陽

月と太陽についての記述がちょいちょい見られる。ぎらつく昼間の太陽から始まって、少しずつ沈みゆく夕陽や夜空に輝く月の描写が増えてくる。アズラエルは夜と月の側にあるものとして描かれているように思える。

脳のメタファー

作中において、「スロー/マニュアルな意識、理性、倫理、新皮質」と「ファスト/オートな非意識、情動、道徳、脳幹」とがしばしば対立軸をなす。天使らに搭載される実験的良心はいわば厳密なルールに基づいた gut feeling であり、天使たち自体も作戦司令部にとっての良心として働いている。整備中に露出する内部システムも頭脳ではなく臓腑と表現される。

ラストシーンにも生物的なメタファーが見られる。脊椎めいて連なる丘の先にシンダンドはあり、街の東では腫瘍に似た司令部が輝いている。『ブラインドサイト』の〈テーセウス〉が巨大な眼を模しているように、脊椎の先の街は脳を模していて、東の司令部は右脳の側頭葉にあたる。側頭葉は一説によれば宗教的体験の源とされる。つまりここでは枷になる意識が打ち砕かれ、神の温床が焼き払われようとしており、そのために使われる兵器がイエス(あるいはアダム)に見立てられている。

Heaven glows on its eastern flank; its sprawling silhouette rises from the desert like an insult, an infestation of crimson staccatos.

insult は広く外傷や病因を意味する。infestation は害虫や寄生虫が蔓延している状態を指す。ここから寄生虫としての意識、霊的体験を引き起こす腫瘍を連想した。I の頭韻は「わたし」を暗示しているとも取れるかもしれない。

この説を取る場合、位置関係上アズラエルに北上してもらわないと困るのだが、進行方向については書かれていない。登場する地方が南よりであること、冒頭では南下していることをもって、結末では北上していると考えておく。

恐怖と神

アズラエルがありもしない悲鳴を聞くようになって最後には恐怖を覚える過程は、『エコープラクシア』でブリュクスが一席打った草原と虎の逸話に対応しているとも考えられる。ありもしない虎の存在を想像して逃げる者が結局は生き残り、人は恐怖から空想上の神を信仰するようになった。アズラエルも同じように予測プロセスから恐怖の機能を得るが、やっていることは信仰とは正反対で、自己保存にも寄与していない。

セルフ・オマージュ

アズラエルが他機の経験を追記しているシーンで vicarious という単語が使われていたのをきっかけに思いついた。長編 Starfishもリフターたちがテレパシーで交感する際に同じ単語が使われる(人間らしい感情移入を表す単語で単なるデータ共有を描いているところも面白い)。同作の主人公レニー・クラークは地上にない居場所と友達を深海で見つけ、仲間の死を経た結末においてはベヒモスという大きな一矢を宿したまま東の大陸へと泳ぎ出していく。アズラエルが辿る経緯と似ており、海底から地上へ/天空から地上へという対称性もある(単に参照したモチーフが同じだけか。むしろ同作登場のスマートゲルがやらかす展開のリメイクかも)。

翻訳

原文は著者サイトで公開されているものを、翻訳はSFマガジン2011年8月号を参照。

a lumbering Báijīng ACV pulsing with contraband electronics.
密輸品の電子機器を脈打たせている鈍重な北京製ACVが一台。

Báijīng は白鯨のピンイン表記らしい。中国製の〈白鯨〉というホバークラフトか。

UNACCEPTABLE COLLATERAL DAMAGE, Azrael repeats, newly promoted. [...] And so the chain of command reasserts itself.
付随的損害:許容不能。またしてもあのコードが走り、アズラエルはそうくりかえす。(中略)あのコードがふたたび作戦中止を訴える。

newly promoted は「拒否権を行使する力を得た=昇格したばかりの」という感じだろうか。次の the chain of command reasserts itself は(アズラエルが拒否権を行使できたのもつかのま)指揮系統=〈天界〉が再び決定権を握る、ということだろう。

Azrael has seen this before: usually removed from high-value targets, in that tactical nimbus where stray firepower sometimes spreads. (Azrael has even used it before, used the injured to lure in the unscathed, but that was a simpler time before Neutral voices had such resonance.)
こういう状況なら前にもあった――いつもどおり、逃げているほうは高価値のターゲットだ。戦術データ上で輝く光輪として映るそれらは損害を受けた熱反応群を置き去りにしつつ、散発的に火力をばらまいている(アズラエルも同様に、こうした被損害体を囮に使ったことはある。だがそれは、〈中立〉の出す音がこれほど重みを持つ前の、もっとシンプルな時代のことだ)。

「(動かない熱反応は)たいてい高価値のターゲットから離れていて、流れ弾が散発的に飛び交う戦域で見られる」。アズラエル「も同様に」というより、囮に使ったこと「さえ」ある、か。

訳すために改めて読んだら nimbus が何を指しているのかよくわからなくなった。データ上の地図か何かと考えていたが、血溜まりのことのような気もしてきた。

IF expected collateral exceeds expected payoff THEN abort UNLESS overridden.

訳し漏れ。

barely breaching airspace, staying beneath an invisible boundary it never even knew it was deriving on these many missions.
作戦空域にはぎりぎり入らないよう、視えない境界線より下方に留まりながら。この境界線の存在には数多くの任務を重ねるうちに気づいていた。

境界線の存在を導き出していたことも知らぬまま、という感じか。

Down here it is free to follow the rules.
下界のここでは、掟からは解き放たれる。

「自由にルールに従える」ではないかと思う。ルールと自由は相反するように思えるが、何よりもまず介入を受けずに本分を果たせる状態が自由ということだろう。

the BFG

おそらく Big Fucking Gun の略。『DOOM』に登場する武器の名前らしい。ファックなくして受胎はないのでこっそり忍ばせたのだろうか。