ピーター・ワッツ “Starfish”

1999年7月刊行。著者の初長編、〈リフターズ〉三部作の第一作。
本文分量およそ97000語、『ブラインドサイト』と同程度の長さ。

翻訳

下記サイトで翻訳を公開している。当記事はネタバレに配慮していないので注意。
https://asteroidea.netlify.app/

あらすじ

21世紀半ば、北米の巨大企業グリッド・オーソリティは高まる電力需要を満たすべく海底における地熱発電計画を開始。完全自動化が成るまでの過渡的措置として、深海で活動できるよう身体改造を施された人間、リフターを現地に配置した。ストレスフルな極限環境で機能するのは精神が安定した人間ではなく、児童虐待の被害者、強姦者、収容経験のある小児性愛者、軍人など、慢性ストレスへの耐性あるいは中毒を持つ者たちだった。発電所のひとつが建設されたフアンデフカ海嶺のチャナー噴出孔、通称「龍の喉」には他では見られない巨大深海魚が生息する。チャナーのビービ基地に配属されたレニー・クラークと同僚たちは深海に適応し、安らぎを見出してゆく。基地の外で過ごす時間は長くなり、安全規則に反する単独行動が常習化し、海底で眠る者さえ現れ、リフターたちの精神は少しずつ変容を遂げ始める。有人操業を当座しのぎと想定していたGAにとって、深海への依存は反乱のリスクを孕んだ懸案事項だった。やがてGAはビービ周辺で不穏な動きを見せるようになる。リフターの隔離。海底に設置された放射線を放つ謎の設備。その裏にはチャナーで数十億年眠っていた微生物、既存生物圏を滅ぼしうる原始生命の存在があった。

背景

  • リフター及びビービ基地の図解資料が著者公式サイトにある。特に基地の見取り図は見ておくと狭さと位置関係がわかりやすい。
  • 海面上昇で海岸線の浸食が進み、沿岸にストリップと呼ばれる難民キャンプが広がる。
  • 温暖化対策に遺伝子改変された葛が北米全土に蔓延り、建物を覆いつくしている。
  • 労働形態はフリーランスが主流。ごく一部の巨大コーポレーションが強大な権力を有しているためか、社員は死体(corpse)と呼ばれる。
  • インターネットは自己進化するウイルスに汚染されており、ファイル改竄の恐れから気軽にメールを送ることもままならない状況。
  • 培養ニューロン製AI、スマートゲルが台頭。主な用途は乗り物の操縦、インターネットの検疫。
  • HMDや触覚フィードバックを介したヴァーチャル・リアリティ技術が普及。モデルに縛られるVRと違い、見たい夢を見られる明晰夢誘導装置もある。

感想

サイバーパンクな設定に彩られた海洋SF。極限環境に適応するための徹底的な身体改造、感情や意志の生化学的裏付け、閉鎖空間における緊張した人間模様、世界を救う選択と附随的損害など、後の作品で扱われるあれこれが本作の時点で既に見られる。

第一部「ベントス」では深海における生存を可能とするリフターのサイバネティクス心理的特性が書き込まれてゆく。第二部「ネクトン」からは外部の視点が加わっていき、文字通り水面下で進行する破滅が浮上する。若干ストーリーの行き先を掴みにくいところはあるが、深海とそこで生きうる人間の細部が詰められていくのが読み所だろう。

印象的な登場人物はメカニックを自称する精神分析医のイヴ・スカンロン。リフターの心理プロファイルと人事を担当しており、参与観察のためにビービ基地へやってくる。生理学や心理学の見地から冷徹にリフターを分析する一方、潜水服を着用しての外出に取り乱し、海底に響く謎のうめき声に怯え、ビービの面々の奇矯な行動に振り回され、観察を終えた矢先に検疫のため隔離されてしまう苦労人だ。光と人を避けるリフターを吸血鬼呼ばわりしたりもする。実質的に第二部の主人公と言ってもいい。全体に緊張がみなぎる本作の中でも彼が視点となるパートはコメディ・リリーフ的で可笑しみもある。

終盤の焦点となるベヒモスは、VHSに対するベータマックス。地球上で繁栄するDNA生物とは異なる遺伝子基盤を持ち、効率性や安定性で勝りながら熱水噴出孔を離れられず、業界水準になりそこねた原始生命。地上に解放されれば従来の生態系が土台から崩壊する恐れがあるため、グリッド・オーソリティは核の使用も辞さない封じ込めを画策する。ここで附随的損害やスマートゲルによる被害算出、作戦指揮が関わってくる。近作に比べると荒削りではあるが、繰り返し探究されるテーマの萌芽がうかがえて面白かった。人類どころかDNAを利用する全生物の危機というスケールもいい。

タイトルの Starfish はヒトデのこと。ヒトデは肉体を引き裂かれても各部分が再生して増殖する。クラークは傷ついても簡単に直せるヒトデに魅了され、複数の断片をつぎはぎして多色のヒトデを作り出す。不安定によろめきつつ、ねじれた形で生きる姿がリフターに重なる。ビービのクルーは地上にはないニッチと仲間を見つけ、テレパシーで連帯を深めていく。テレパシーはガンツフェルト実験と量子脳理論を元ネタとしており、深海の高圧下で神経の発火が加速するために発現するという設定(通常は脳のショートを防ぐ神経阻害薬が放出されている)。

文明という火に薪をくべるリフターは地上なら爪弾きにされる除け者だが、その気になれば大陸の電力網をダウンさせられる。この構図は研究生活で得た実感に基づいたものらしい。家庭を顧みず仕事に明け暮れる頭のねじが外れた研究者こそ往々にして進歩や発見をもたらしていたのだとか。狂人の成果の上に成り立つ世界にはデトリタスの上に繁栄する底生生物のイメージも重なる。後年、似たような構図は吸血鬼や両球派、エリオフォラ乗組員に受け継がれていく。

余談

  • 冒頭はデビュー短編の “A Niche” ほぼそのまま。 “Home” は本編登場人物が異なる経緯を辿る外伝的短編で、一部文章が本作に再利用されている。
  • シリーズ化は当初の予定になく、主人公の死とともに世界の破滅を予感させる結末だったのだが、それでは読者の受けが悪いとの要請を受けて現在の形になったとのこと。そのため伏線(過誤記憶の誘発とか)が露骨に残っており、結末もクリフハンガー気味。
  • 『ブラインドサイト』で引用される『ゼロ・サム』なる架空の本の著者ケネス・ルービンはリフターのひとり。ある時点まで過去の歴史を共有しているのかも。