テッド・チャン「ゼロで割る」

今回再読してようやく結末に納得がいったので、ノーウッド夫妻の関係が破綻に至る理屈を整理した。

自殺を試みた若きカールはローラに支えられて回復し、感情移入を学んで生まれ変わる。レネーの核がタイルのパターンに見出されるような精密さだとすれば、カールの核は感情移入、思いやりの心である。

同情 sympathy と感情移入 empathy の差とは何か。前者は困っている他人を前に自然と抱く感情、後者は他人の心情を理解し共有する能力と定義されている。カールは自殺未遂の経験があるぶん、受動的な哀れみを覚えるのみならず、自殺に気持ちが傾いた人を能動的に理解できると考えているのだろう。当事者経験が感情移入を高めるとは限らないが、自分だったらどう感じるかのサンプルにはなる。

数学者であるレネーは既知の数論から矛盾を導き、量の概念を失調するほど思いつめてしまう。その証明がレネーと同等の優れた数学者にしか理解できない点も相まって、その動揺を共有するのは難しい。

「絶対視していた認識の崩壊」を経験していれば、感情移入によってレネーを思いやることができるかもしれない。しかしそれは叶わない。カールが経験した認識の崩壊とは「もはや自分は妻を愛しておらず、それどころか精神を病んだ妻との関係を終わらせてしまえる人間だった」というものだからである。

誰にも無限の献身は望めない、夫が病める妻を置いて去るのは許される罪だとしながら、カールは自分ならそばで支えるだろうと考えていた。かつてそのようにいたわってもらったのだからなおさらだ。現実にレネーが自殺すら試みたとき、感じたものは義務感でしかなかった。愛が冷めたこと、自分が妻のもとを去るつもりでいることをカールは悟る。

思いやりこそ自身の根幹と考え感情移入能力を自負していたカールにとって、偽善を自覚するのは何よりつらい。その経験はレネーに感情移入する糸口でありながら、同時に自らの感情移入の不備を証明していた。「感情移入こそがふたりを結びつけずに、逆に引き裂いているからであり、彼女にそれを打ち明けることはできない」。矛盾は解消できず、ふたりは別れることになる。

1=2の証明と対応する構成はもちろん、カールが陥る感情移入の矛盾にも論理的な行き詰まりを絡めているところがよい。

以下は余談。

医師から自殺未遂歴を問われたカールは「いや、跳躍競技をやっていました」と答える。原文は“No, I tried jumping.”である。レネーが取ろうとした手段は服薬だったが「わたしが図ったのは投身でした」と言っているのだろう。確認した文庫は第12刷。

ケン・リュウは本作に影響されて「愛のアルゴリズム」を書いたらしい。扱われるのは自由意志の幻想だが、議論も不安も素朴でわかりやすいぶん月並みなサスペンスに収まっている。対話プログラムの設計者にとって会話が一定のパターンに収まることはむしろ前提ではないだろうか。その前提が通じない局面を見たい。